思い込み 騙されないよう気をつける 洗脳 無知の知 不可知論

人は誰しも、ある大きな思い込みに囚われてる
それは「自分は思い込みに囚われてない」と言う思い込み
この「思い込みに囚われてないと言う思い込み」こそ根本的な思い込み
この文章の作者である俺自身、自分でも気づいてないだけで、既にたくさんの思い込みに囚われてる
どんな思い込みに囚われてるかは、自分でもまだ分かってない

「思い込みに囚われないよう気をつけよう」と口にする人がいる
だが、そのように口にする人は、ある思い込みに囚われてる
それが「自分は思い込みに囚われてない」と言う思い込み
「思い込みに囚われないよう気をつけよう」とは、言い換えれば
「私は思い込みに囚われてないから、その囚われてない私を見習って、あなたも思い込みに囚われないようになりましょう」と言うこと
このように口にする人は、自分が既に思い込みに囚われてることにすら気づいてない



「騙されないよう気をつけよう」と言う考えには2つの間違いがある。それは次の通り

①「騙されないよう気をつける」より大事なことがある
それは「既に騙されてることに気づく」こと

「騙されないよう気をつけよう」と口にする人がいる
だがこの「騙されないよう気をつけよう」とは、言い換えれば
「私は騙されないし、騙されてもいない。だからそんな私を見習って、あなたも騙されないようになりましょう」と言うこと
このようなことを口にする人は、自分が既に騙されてることに気づいてない

②「騙されないよう気をつけよう」と考える人は、騙されないことが目的になってる
これが問題だ。なぜか?
「騙されないこと」を目的とすると、無意識の内に相手の意見や情報を間違ってる可能性が高いと見積もることになる
「間違ってる可能性が高い」と見積もっておけば、騙される可能性が減るからだ
それ故、相手が真実を口にしたのに、それを偽りだと判断する、と言う過ちを犯す可能性が高くなる
(相手が偽りを口にしてそれを真実だと思い込んだら、自分が損をする可能性が高い
だが、相手が真実を口にして、それを偽りだと思い込んだら、利益を得るのに失敗する可能性は高いが、損をする可能性は低い
そのため、損失を回避するために相手の意見や情報を間違ってる可能性が高いと見積もる人が多い)

日常生活を送ることが目的なら「騙されないこと」を目的にしてもいい
だが、真理探究を目的とするなら「騙されないこと」ではなく「真実を見抜くこと」を目的とすべきだ
(真実を見抜くことを目的とするなら、相手の意見や情報について
最初から正しい可能性が高いとも、間違ってる可能性が高いとも見積もることはない)



洗脳とは何か?
教育=洗脳
常識=洗脳
情報=洗脳



無知の知は、その理解の深さにおいて三段階に分かれる
一段目「自分には知らない事がたくさんある」と気づくこと
二段目「自分が知ってると思ってることも、実際はまるで知らない。ただ知ってると思い込んでただけ」と気づくこと
三段目「自分が何を知っており、何を知らないかを明晰に理解すること」




不可知論について
不可知論と呼ばれるものがあるが、その不可知論とは根拠のない思い込みにすぎない。それについて説明する

例えば死後の世界があるかないか?で考えてみる
これを不可知論者なら、死後の世界があるかないかは、死んでみないと分からない
生きてる人間が死後の世界があるかないか知るのは不可能だ、と主張するだろう
だが俺は、その不可知論に次のように反対する
もしかしたら、世界のどこかに例え一人でも、死後の世界があるかないか、その答えを知ってる人が、いるかもしれないし、いないかもしれない
また、これから何年も考え続けることで、その答えが明らかに、なるかもしれないし、ならないかもしれない
また、これから科学がさらに発達することで、やがてその答えが明らかになる時が、くるかもしれないし、こないかもしれない

このように、その答えを明らかにすることが、できるかできないかすら、今の時点では分からない、と言うのが正しい
だが不可知論者は「その答えを明らかにすることはできない」と、根拠もなく決めつけている
故に、不可知論とは根拠のない思い込みにすぎない