桶狭間の戦いの真相

ここでは、桶狭間で本当は何が起こっていたのかについて書く。

まず、桶狭間の戦いにおいて、義元の目的は何かと言うと、
第一目的が大高城と鳴海城の救援
第二目的が尾張制圧

さて、義元は信長の奇襲を想定しておらず、油断していた、と言われてる。
だが、それは違う。義元は信長の奇襲を想定していた。
と言うのも、桶狭間の戦い以前から、信長は勇猛な武将だと言うことが、近隣の国国にも知れ渡っていた。
そのため、信長が奇襲に打って出ることは、義元も想定ずみだった。
そもそも信長自身が、籠城はしないで打って出る、と言う情報を流していた。

さて、その奇襲についてだが、義元は二つの奇襲を想定していた。
一つ、砦を攻撃中に背後から奇襲する。
二つ、行軍中に隊列が伸びた所を横から奇襲する。
義元はこの二つの奇襲を想定し、対策していた。
そのため義元は、砦を攻撃中も、行軍中も奇襲されてない。
だが、義元は奇襲された。
それは、義元が桶狭間山に居る所を奇襲されたからだ。
そのような奇襲は、義元には想定外だった。

さて、桶狭間では、正面攻撃説と迂回攻撃説の二つがある。
どちらが正しいか?どちらも間違い。
と言うのも、信長は従来言われている迂回経路より小さく迂回した。
なので、迂回奇襲と言うのは正しいが、従来説の迂回経路は間違い。

次に、義元の油断について。
義元は、桶狭間山で油断して宴会を開いた。
なぜそんなにも油断したのか?
それは、信長の首を討ち取ったから。
どうゆうことかと言うと、桶狭間の前哨戦で、織田軍の将、佐々政次、千秋四郎が突撃して討ち死にした訳だが、
実はその時、佐々政次は大将の格好をしていた。
その佐々政次の首が運ばれてきた時、義元は「これが信長の首である」との報告を受けた。
それで義元は、信長の首を討ち取ったと思い込み、油断した。
こうして義元は、信長の仕掛けた罠に嵌まった。

次に、桶狭間の戦いのあった場所について。
義元は、桶狭間山に居た。
そして、信長の奇襲を受けてからは移動し、田楽狭間で討ち死にした。

次に、今川と織田軍の数について。
今川軍、2万
今川本陣、4千
三河軍、2千五百

織田軍、8千
信長直属部隊、4千

次、隠された陰謀について。
まず、義元はどのような作戦だったかと言うと、実は織田方に内通者を見つけていた。
それは誰かと言うと、斯波義銀だ。
信長が軍を率いて前線にやって来た隙に、斯波義銀名古屋城を乗っ取る。
そして今川軍は、帰る場所をなくした織田信長を討ち取る、と言うのが義元の作戦だ。

さらに次、信長はどのような作戦だったかと言うと、実は今川方には内通者がいた。
それは、徳川家康だ。
信長は密かに家康に接触し、内通させ、それによって今川方の作戦情報は、信長に筒抜けだった。

このように、織田方、今川方、両者に内通者がいる、と言う二重の陰謀が巡らされていた。

最後に、未遂に終わった作戦について。
信長は、義元の首を討ち取ることに失敗した場合についても想定していた。
その時に備えて、予備計画を立てていた。
その計画とは「三河中入り」作戦だ。
三河中入りとは、今川軍を無視して三河に攻め入り荒らし回り、今川軍の補給を断絶させ、撤退に追い込む、と言うもの。